投げ出しても終わらない、情熱を抱きしめて

先日、ゲームについての認識を改めたことを日記に書いた。その後、私はどうぶつの森だけにとどまらず、様々なゲームを再開した。それらはどうぶつの森とは違い、一般的な終わりのあるゲームだが、何らかの理由で私の中で中途半端になっていたモノたちである。

分かりやすいのは、途中であきらめたゲーム。例えばパズルゲームというのは面が進むごとにだんだんと難しくなってくるのが常で、なかなか解けなくなってくる。それをどう解くか、と考えるのが醍醐味のはずなのに、今の私はすぐ諦め、そのゲームから離れてしまう。

意外と、別の日にそのゲームを再開すると、難しい面があっさり解けたりするのである。あの日、すべてのパターンを試してもダメで、こんなの解けるわけがない製作者のミスだバグだ失敗だ、とイライラしたのが嘘のようだ。私の場合、適度に距離を取ると良いらしい。

他には、一度あるいは数回クリアしているものの、いわゆるコンプリートができていないゲーム。全アイテムを限界個数まで集める、とまではしなくても、全ルートクリアとか、全実績達成とか、そういうやつだ。目指したいのだが、途中で嫌になってしまう。

気付いたのだが、コンプリートを目的にすると、私は効率を求め始める。これは、能動的にゲームを楽しむ行為に反している。言うなれば、ゲームプレイが仕事と化すのだ。嫌になるはずである。効率は忘れ、気付いたらコンプリートしていた、という風に遊んでゆきたい。

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