人間は誰しも幸せになる権利を持っている、と私は考えている。しかしこれを、人間は誰しも幸せになることが可能である、と書いてしまうと、少しニュアンスが違ってくる。権利を持っている、ということは必ずしも、権利の行使が可能である、とは言い切れないと考えるからだ。例えば、ある映画のチケットがあなたの手元にあるとしよう。このチケットを映画館へ持って行けば映画が見られるから、これはあなたが映画を見る権利を持っている、ということに等しい。だが、チケットそのものをいくら眺めてみても、あなたの目に映画が映ることはない。映画を見る権利を行使するためには、映画館へ行くという前提条件を満たす必要があるのだ。
ところで今日の私は散歩がてら、いくつかの店を見て回るつもりで家を出た。おおよそ下記のような一日だった。
- 散歩中ずっと曇り空だったが、雨は降らなかった
- 昼食に立ち寄った中華店のランチセットは安かったが、味はイマイチだった
- 欲しかったCDをリサイクルショップで見つけ、それなりの価格て購入できた
さて、この一日をあなたならどう『評価する』だろうか。素晴らしい日、不幸な日、楽しい日、平凡な日……この日に評価という色を付けるのは、それぞれの人間の主観だ。「最近は不安定な空模様だったけれど、散歩中に雨に降られることが無くて良かった。昼食は安く食べられたし、欲しいCDは見つかった。今日は素晴らしい日だ!」と評価するのも、「せっかくの散歩だというのに一日中スッキリとしない空だった。昼食の味はイマイチだったし、CDは古いものなのに結構な値段で買わされることになった。今日は良いことが無かったな」と評価するのも、決して間違いではない。
冒頭で書いた、幸せになる権利を行使するための前提条件。それは上記の前者のような、どのようにも評価できそうな物事に対して積極的に幸せという評価をする、ということだと私は考える。つまり自分の胸先三寸で、自分の中の幸せは増やすことができるのだ。幸せを増やす技術を磨き、自分の周囲を幸せで満たすことができる人こそが、幸せな人なのである。逆に上記の後者のように、積極的に幸せを減らすこともまた、残念ながら自分の胸先三寸でできてしまう。自分という存在は、自分自身を幸せにも不幸にもするのだ。
私は幸せになりたいと思っている。だからこの権利をいつでも行使できるよう、幸せ評価力を高めていこうと心がけている。