この文章を書き始める前に、どういう書き出しが良いか迷ったので、とりあえず思い付いた『賀正』でインターネット検索を行った。そして「『賀正』は敬意に欠けるので目上の方へ使ってはいけない、『謹賀新年』でなければいけない」などと書いてあるサイトに行き当たった。それを読んで、新年早々に自らを否定されたように感じ、ちょっと嫌だった。今年もよろしくお願いします。
何が切っ掛けだったかは忘れたが、会話や文章における否定形について考えたことがある。いまの世の中、否定形は近くにたくさん存在する。誰かと話をすると、相手の返答が「いや」から始まることが多々ある。目にするキャッチコピーは「もう~しない」と訴える。ルールやマナーを教える人はまず常識の間違いを指摘する。我々は毎日ただ生きているだけで、他の誰かから否定され続けているのだ。
そういう社会で生きている私も、他の誰かを否定するようになっていた。あり得ない、信じられない、理解できない。先に否定されるから、その否定した相手を否定し返す。否定と否定の応酬。国語の文法から言えば二重否定は肯定となるが、これは自己肯定ではなく自己防衛だ。そして最大の防御とばかりに、攻撃される前から他者を攻撃、つまり否定するようになるのである。
知人とバスで会話していた時、近くに座っていた知らない人に「なァにが〇〇だ」と言われたことがある(〇〇は知人との会話内容である)。その時は二人でイラつきながらも彼を無視してやり過ごしたのだが、後からこれは汎用性の高いフレーズだと思い至った。誰かの言葉を「なァにが〇〇だ」のテンプレートに当てはめるだけで、知らない事でもそれを否定できる。きっと彼は否定のプロだ。
このことを顕在化できた現在、私はできるだけ肯定形を使用するよう意識している。まさにこの「できるだけ肯定形を使用するよう」という一文も、意識していないと「できるだけ否定形を使用しないよう」と否定形で書きそうになるのだ。『否定形依存症』とでも呼ぶべきこの症状、脱却できるまでにはまだしばらく時間がかかりそうである。